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Romeoの雑記集

Romeoと申します。主に社会とかメディアとかメディアコンテンツについて思ったことをつらつら書いています。

千葉日報の免責事項について思うこと

はじめに

 今回は先日Buzz Feedが出した「偽りの記憶が「史実」になる恐れ 戦争証言とメディアの責任」(井指啓吾、2016年6月20日閲覧)という記事についてである。Buzz Feedの中でもかなり注目されているが、この中で取り上げられている件の記事を掲載した千葉日報オンラインの免責事項がメディア企業としてどうなのか?というものだったのでこれについて考えてみたい。

 

 

千葉日報の免責事項の問題点

 千葉日報の免責事項*1は以下の通り。

 千葉日報社は『千葉日報オンライン』上のサービスについて、遅延や中断、その他不都合が生じた場合、いかなる責任も負いません。

 千葉日報社は『千葉日報オンライン』で提供された情報の正確性を保証いたしません。また、情報の欠陥が必ずしも修正されるという保証もいたしません。

 千葉日報オンライン』上のコンテンツは、予告なく修正・変更・更新・削除などされることがあります。

 千葉日報オンライン』にリンクしたことにより、トラブルや損害賠償問題等が発生した場合には、リンクされた方の責任及び費用で処理してください。千葉日報社が損害をこうむった場合には、当社からも損害賠償などを請求することがあります。

  •                                   引用終わり
  • (赤字は筆者によるもの)

 まず、「情報の正確性を保証しない」点に関しては、一新聞社がニュースを制作するにあたっての態度としては疑問視せざるをえない。大前提として、誰しも間違いはするものであるのだが、それを「免責」として責任を負うことを放棄することは僕自身は理解できない点である。

 二つ目の「情報の欠陥が必ずしも修正されることを保証しない」点については間違いがあっても直さないかもしれないと言っていることになるわけだが、仮に誤報を出しても訂正報を出さない可能性があるということだ。これは一メディア企業のあるべき姿とは思えない。

 

まとめ

 新聞や放送、ラジオ、ウェブメディアをはじめとする「メディア企業」が真価を発揮するのは、「間違い」を犯した時であると僕は思う。「間違い」とは誤報であったり、やらせであったり様々だが、どれも「間違い」を認めるということは、自分に非があったことを認めることであり、それは誰もが嫌だと思うことである。
 メディアにおいては、特に間違い後の対応が大切ではないかと思う。メディアがメディアとして成り立つためには、読者や視聴者からの「信頼」は必要不可欠であり、間違いを認め訂正することは、その信頼を失う/得るというどちらにも転ぶ機会である。
 千葉日報に免責事項は、リスク回避の点においては理解はできる。しかし、メディアが情報発信を行う上での責任をすべて放棄している点は、読者などの受け手側から見れば不信感を生むというリスクをはらんでいる。そしてその不信感はメディアとしての「信頼」を失うことにつながってしまうのではないだろうか。

 

追記

 千葉日報は6月20日に「千葉日報オンライン」の免責事項について「読者の誤解を招きかねない不適切とも言える表現であった」とコメントを発表した。今後は内容について精査し、必要に応じて改訂を行うことを考えているとのことである。
(2016年6月22日に追記)