Romeoの雑記集

Romeoと申します。主に社会とかメディアとかメディアコンテンツについて思ったことをつらつら書いています。

小池都政と「見せ物政治」

はじめに

 久しぶりの更新になります。 

2017年3月20日、東京都の豊洲市場の移転問題についての百条委員会で、石原慎太郎東京都知事が証人として証言を行った。石原氏の発言内容とメディア報道について思ったことを少し。

小泉劇場」を彷彿とさせる小池都知事

 これは僕の勝手な思い込みかもしれないが、小池都知事の政治手法というのは2000年代の小泉政権時代に呼ばれた「劇場型政治(小泉劇場)」と呼ばれるものにとても似ている気がする。小泉元首相は郵政民営化法案が否決された後、衆院を解散し選挙を行った。その際、反対票を投じた議員の選挙区に「刺客」候補を送り込み、結果として選挙では大勝、その後の国会で法案を可決させている。この「敵」を作りながら支持を広げていく手法は小池都知事のやり方にも通ずるところがあるように思う。

 

小池都知事の「敵」は誰か?

 では、小池都知事の「敵」となる人物は誰か?小池都知事は知事選挙の時から一貫して都政の透明化、オリンピック費用などのコストカットを施策に掲げている。今まで隠蔽体質の改善、オリンピックの自治他への負担分散などをやってきたが、そのつど「敵」役がいた。都庁職員やオリンピック委員会委員長である森氏がこれにあたるだろう。
 現在取り上げられている豊洲市場では、石原氏や歴代市場長が「敵」役として百条委員会に呼ばれることとなった。

 

目的のために「敵」をつくる

 なぜ小池都知事は敵を作り続けるのだろうか?
6月の都議会選挙のためのイメージづくり、自身の地域政党都民ファーストの会」の基盤確立など政治的な目的が見え透いている。「敵」を作り続け、メディアに取り上げてもらうことで、選挙戦を有利に戦いたい、基盤を磐石なものにしたいという思惑があるように僕は感じる。

 

小池都政はポピュリズム

 小池都知事の「敵」を作ってそれを倒すという構図は、ある種ポピュリズム的な側面をもっている。現在ヨーロッパで猛威を振るっているポピュリズムの波は大衆の不満を難民や移民が原因(敵)であると置き換えた。その結果、極端なナショナリズムに基づく排外主義の台頭を許すことになった。「敵」となった難民や移民を排除する政策などを主張する政党は歓迎される。
 「敵」を作ることは同じだが、小池都知事の手法はヨーロッパ的なポピュリズムとは違うように僕は感じる。そう思うのにはメディアの存在が大きく関わっているように思う。

 

メディアがつくるポピュリズム

 小池都政におけるポピュリズム的手法は大衆が(権力者に)迎合しているのではないだろうか?本来の意味のポピュリズムとは権力者が大衆に迎合していくことである。しかし権力者が大衆の不満を煽って支持を広げていくにあたって東京は不満だらけなのかという疑問がある。
 現在の日本はそこまで不況とは言えないし、韓国のような政治不安が起きているわけでもない。確かに歴代2人の知事が「政治とカネ」の問題で知事を辞めたが、これも個人的には大きな不満とまでは言えないと思う。

 そこで考えたのがメディアの存在である。大衆が求めているのは、権力者や地位のあった者の凋落する様であって、メディアはただその様子を伝える舞台装置になっているのではないだろうか?例えば、日本研究者のファーは日本のメディアの歴史や実態に対する概念として「トリックスター」という言葉を用いている。トリックスターは道化役、いたずら者という意味合いで、(権力者を)ある時は褒め、ある時は批判するような一貫性のなささがメディアの身上であると考えた*1。百条委員会でテレビに映し出された元都知事の老人の姿は、まさに権力者が落ちぶれた姿そのものではないか。

 

小池都政は「見せ物政治」

 小池都政の実態はメディアと共につくられた「見せ物政治」ではないかと僕は思う。「敵」をつくり、倒す様子をメディアを通じて見せることで支持を獲得していく様子はまさに「見せ物」を見ているかのようである。
 オリンピック問題や豊洲問題では、森氏や石原氏といった元首相、元知事を歴任した人物がやり玉にあがったことで、中身よりも人物優先でニュースが進行してしまった感が否めない。豊洲市場のニュースでも取り上げられるのは「豊洲をどうするか?」ではなく「誰が責任を取るか?」である。
 誰が腹を切るか?メディアが映しているのはニュースの本質のごく一部だけである。

*1:蒲島郁夫【編】、『メディアと政治』、有斐閣、2010、p24.25より引用